兵庫県の山間部、日本海と瀬戸内の中央ぐらいに生野はある。自転車では何度も行ったことがある街で、その度に鉱山で栄えた街並みが印象に残っていた。
今回は生野鉱山の旧社宅である甲社宅に宿泊し、生野の街を堪能することにした。
生野までは姫路から伸びている播但線で向かう。もともと生野鉱山から飾磨港までの交通路として引かれた路線で、鉄道ができるまでは馬車道が設置されていた。このルート「銀の馬車道」と呼ばれ、文化遺産にも登録されている。
寺前までは電化されているが、そこからは非電化でローカル線の色が濃い。生野駅に降り立つ。もともと栄えていた鉱山のある東側は今は閑散としている。西側の国道は交通量が多いが、皆街を通らず通り過ぎてしまっている。
駅前では元旅館の建物と、焼き鳥屋の空き家、現役のお土産屋が迎えてくれる。この旅館は日下旅館と言い、木造三階建てである。生野の資料には完成当時、工事に関わった人が窓から顔を出している写真が掲載されていた。
今回は生野のカフェでお昼を食べた。
お店の方に伺ったところ、もともと生野では林業も盛んで、林業を営んでいた家を改造してお店にされたそうだ。お庭や店内の雰囲気がとてもよく、料理も地元の野菜が使われているようでおいしかった。
次に向かったのは口銀谷銀山町ミュージアムセンターだ。元町長の邸宅らしい。鉱山で栄えた時代のものでとても豪華だ。案内された洋館で紅茶をいただいた。この日はとても寒かったので、石油ヒータを2つも点けてくれた。
泊まる予定の甲社宅へ向かう。俳優の志村喬が幼少期を過ごしたことを売り出している。社宅の周辺には色々な宗派のお寺がある。比較的短命だった鉱山労働者たちは、全国から生野に来ていた。そういった需要にこたえるため、様々な宗派のお寺が建てられたそうだ。
甲社宅に入る。
中には当時使われていた道具が置かれており、博物館のようだ。こういった空間に泊まることができるのは面白い。
ここに暮らしていたのは、鉱山労働者の中でもかなり上層部だった。社宅は広くぜいたくだ。さすがに木造なので、夜は風で窓ガラスが揺れる音がひどかった。
生野鉱山が栄えていた当時、生野で手に入らないものは何もなかったらしい。鉱山は一つの街のようで、病院や娯楽施設、共同浴場が備え付けられていた。鉱山が閉山となるとき、生野から出ていくのをためらう人もいたらしい。今は当時の面影はなく、寂れた街が続く。三菱が経営し、当時最新鋭の機材を入れていた鉱山がこんな形になるとは、当時の技術者はどう感じるのだろうか。