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水窪駅
水窪駅で降りる。最後の国鉄型213系がメインルートである東海道本線を追い出され飯田線で活躍している。
行きに乗ったJR東海の傑作車として名高い313系とは異なり、軋む音が大きく、乗り心地は良いとは言えない。経年劣化もあるだろうが昔はこれが標準だったのだ。技術の進歩を感じる(最新の機構が導入されたのだろうか、それともコストダウンで一般車にも高度な技術が行き渡るようになったのだろうか)。
水窪の街は駅の対岸に広がっている。そのため、街にアクセスするには水窪川を吊り橋で渡る必要がある。
秋葉街道沿いに水窪商店街がある。今は閉業されてしまっているが、日常で使うものは全て揃いそうだ。過疎になっても賞味期限が長く、客単価の比較的高い呉服店や美容院、生活必需品を扱う食料品店は今でも営業されている。商店でお惣菜を購入し、川沿いでいただいた。
商店には街の小学生が来ており、店員さんに宿題はちゃんとやっているのか聞かれていた。東京育ちの僕には新鮮だ。一方で小学生は、果汁グミの包装の中に、グミが何個入っているか聞いていた。兄妹で分ける場合に、個数という概念は重要なのだろう。グラム表記を重視する我々は見ている世界が異なる。
高台から街を見渡すことができる。街道沿いに民家が密集している姿がたまらない。
街のあちこちに秋葉街道に関する看板があり、当時の道を辿ることができる。昔の人々と同様に街道を歩いてみる。高低差があり、坂はキツく、この道を重い荷物を持って移動していたのはすごい。
秋葉街道は縄文時代から人の行き来があったとされる街道で、水窪周辺では多くの遺跡が見つかっているようだ。塩の道として、諏訪の方への交通路だった。時代が降ると秋葉信仰と呼ばれる「火伏せ神」が祀られた秋葉神社への参道として使われた。
水窪町に関するおもしろい論文を見つけた。
1978年(昭和53年)のもので、1970年ごろの水窪への工場誘致によって、部落の人口減少を抑制する効果があったことを推測している。
論文が書かれた当時の人口は6500人だが、現在の人口は3000人。工場もなくなり人口は減る一方である。なぜ工場がなくなったのか興味があるが、記事が出てこなかった。水窪という土地にある以上、輸送コストの点で他に勝てなかったのだろうか。
中部天竜駅
向市場駅まで歩き、水窪駅までまた歩いて戻り、飯田線で中部天竜駅へ向かった。
中部天竜駅も水窪駅と同様で、街の中心は駅の対岸にある。北側にはダム建設で使われた立派な赤いアーチ橋が掛かっているが、南側の吊り橋から向かうことにした。
この街も他と同様に国道沿いに商店が並んでいる。高台からは街を見下ろせるベンチが設置されていた。そこで少し休憩した。
また、駅の方に戻り、山に向かって道を登った。こちら側は茶畑も多く、静岡県を感じることができた。
中部天竜駅のある佐久間町は、佐久間ダムの建設で栄えた。工事が着工した1950年ごろに、工事関係者のため、様々な設備が作られた。炭鉱の街と同様に、旅館や料亭があったらしい。そんな町もダムの完成とともに人口が流出。そのダムも現在では砂がたまり問題となっている。
佐久間ダムの建設記録。現代の会社の安全保安課おっさん真っ青の仕事場が登場する。さすがに命綱なしでクレーンに吊られた鉄骨に乗るのはやばくない?殉職者を讃える雰囲気があるが、今の会社でそんなことしたら非難轟々だろう。時代を感じる。
↑佐久間町の人口変化について解説されている。
街道沿いの寂れた街の風景が好きで、こういった景色を追い求めている。街を巡りながらどうして好きなのか考えていた。
そこで浮かんだのは以下である。
・街が活気溢れる時代に生まれていたら、その風景を好きにならなかっただろう:「寂れた」が重要。
・作られた「昭和レトロ」は好きではないし、タピオカ屋など今イケイケのものが将来廃れた姿で残っても好きにならないだろう:「作られたもの」や流行りではなく、住む人の生活に欠かせないものが好き。特に炭鉱関係など多くの人が関わっていたものが好きなのは、「使い捨て」同然の環境だった人々(この時代でも「大手」はある程度の環境だったらしいが。。。)が人生を捧げて作り上げたものに興味があるのだろう。それが寂れた姿を肯定することで、自分への肯定につながっているのかもしれない。
・電柱が撤去されているような、景観保護地区は好きではない:「生活感」が必要なのだろう
なんで好きなのか言語化するのは難しい。
中部天竜駅からは特急伊那路に乗り、豊橋に向かった。飯田線の沿線も風情があってよかった。今度は自転車でゆっくりめぐりたい。