釧路の栄枯盛衰
釧路というと漠然と酪農やグルメのイメージしかなかったのですが、この釧路系youtuberの動画がおもしろく、自分も釧路に行ってみたくなりました。
街の栄枯盛衰を肌で感じるのが好きです。四国で多く見られるような、自然に発展して自然に廃れた街からは柔らかさを感じるのですが、北海道は違います。
多くの人が関わり無理やり開拓した街が時代とともに廃れていく。その姿には物悲しさを感じます。
釧路は石炭と漁業・製紙で栄えた街です。1980年には人口は22万人。道内4位、道東最大の街でした。現在は16万人。ほぼ帯広と同じで、苫小牧にさえ抜かれました。
よく知られている通り、石炭産業は石油へのエネルギーの転換、海外の安い石炭の流入に耐えることができませんでした。例に漏れず釧路の太平洋炭鉱は2002年に閉山しました。しかし、太平洋コールマインという地元の会社が炭鉱を引き継ぎ、今も日本最後の坑内掘りの炭鉱として営業が続いています。ここでは炭鉱技術の継承と、海外の炭鉱技術者向けの教育も行われています。
釧路は北洋漁業でも栄えました。1969年から1976年にかけては日本一の漁獲量だったらしいです。しかし1977年にソ連やアメリカが200海里の制限を設けた影響で漁獲量は下がりました。そんな絶望的な状況でしたが、幸運なことにしばらくはイワシが多く穫れ、1978年から1991年までは日本一の漁獲量を維持し続けました。しかし、以降はイワシの漁獲量も減少、漁業は衰退しました。
また釧路では豊富な水と木、それを運ぶ川と運び出す海の立地の良さから1901年から製紙工場が稼働していました。しかしこれも紙の需要減の影響で2021年に閉鎖されました。
釧路駅の南口に出ると廃ビルがお出迎えしてくれます。釧路駅周辺については次の記事で紹介します。
石炭産業の面影めぐり
今回はレンタカーを借りて主に石炭の面影の残る場所を主に巡りました。
まず向かったのは珈琲坂という喫茶店です。
ここでは自身も炭鉱夫として太平洋炭鉱で働いていたというマスターから炭鉱の色々なお話を聞くことができました。
炭鉱には労働者はもちろん食料の原料も集まり物流の中心になっていたとおっしゃっていたことが印象的でした。太平洋炭鉱は当時最新の設備が導入されていた炭鉱でしたが、炭鉱が安全とは到底言えなかったこと、効率を高めようとする上の人間と炭鉱夫の闘いなどおもしろいお話を聞くことができました。
ここの名物は炭鉱ラーメンです。
炭鉱ラーメンは太平洋炭鉱の炭鉱夫が実際に食べていたラーメンです。マスターの先代がここで商売を始めたらしいです。
次に、釧路コールマインの施設を見に行きました。本当は炭鉱展示館に行きたかったののですが、行ったら休館日でした。
この近くでは現在使われている現役のずり山が見え、大型のトラックが行き来していました(ずりというのは石炭を掘ったときにでる不要な石です)。
海の方には昔使われていたというずり山が見えます。
次に、石炭を鉄道から船に運び込んでいた石炭桟橋跡に向かいました。近くの灯台から見下ろせるのですが、すごくかっこいい。
海沿いには北海道で始めて石炭が掘られたと言われている岩見浜があります。
近くの展望台からは釧路の街が見渡せました。
釧路の街がこんなに高低差のある街だとは思ってもいませんでした。釧路といえば牧場がたくさんといった謎のイメージは良い意味で崩れました。